「こんにちは、現代座の松本美穂です」はち切れんばかりの元気のいい挨拶を受けて私は彼女と初対面をした。
夏の盛りのうだるような午後、彼女は事務所の片隅に、パンフレットの山を前にして、案内状の封筒詰めをしていた。彼女の所属する劇団の旭川公演が一ヵ月後と迫っていた。
「私、北海道沼田町出身なの」屈託のない笑顔でせっせと身体を動かす姿は爽快に映る。彼女は大車輪のように身をこなし、回りを圧倒させる意気込みであった。
随分明るく元気のいい人だ。私はそんな印象を受けていた。それが私と彼女の長い年月の手紙のやり取りの始まりとなった。 |
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深い静寂が広がり、冷秋の小雨が舞う午後、藍色の花模様の封筒が玄関の隅に届いていた。私はそれを取り、冷えた部屋の椅子に腰をかけ封を開いた。華やかな封筒の中には、柳の小枝を並べたような女性らしい文字で、苦悩の心情
を切々と語っていた。
「もうこの仕事を止めようかと思って、どうしていいのか分からないの、本当のところ北海道へ戻って、土を触ったり、花を育てたりして生きていきたいの、風になって初めて気が付いたの」
私は数度しか会ってない、あの元気のいい彼女を思い浮かべていた。俳優に憧れ後追いしてた頃の夢は色褪せ、展望のない苦悩だけが呻き声のように聞こえてくる。華やかに見える舞台の裏には、どれだけの身を切るような血汗をながしていたのだろう。私は彼女が時には乾燥した無表情の都会を走り、また時には、濃緑の山間で
名も知らぬ人たちのなかで疲労と孤独にあえぎ、膝を抱え背中を丸めている場面を想像した。
思いを伝えることの出来ない他人の土地での自己葛藤は絶望をさらに絶望へと追い込む。櫂を失った拠り所のない船が暗闇の大海に沈んでいくようなものである。夢と現実の狭間を飛んだ俳優の希望の翼は想像以上の社会の風雨に耐え切れなくなっていた。
私は返信の筆を取ったが、その筆は思うように進まない。無責任かもしれないが、私には俳優の暮らしは分からない。まして若い娘が夢を失うということなどには返事のしようがない。取り留めのない勝手な文章を並べ封筒の蓋を
閉じた。
それから暫くの間彼女からの便りは届かなかった。私は自分の身勝手な事を書き並べたことに後悔をしていた。
全国を駆け巡る彼女の動向を知る由もなく、時として困惑のなかに想いを巡らせるだけであった。 |
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「沼田町で公演があるので観に来てほしいの」そんな便りが届いたのは紅葉の鮮色が終秋の色に近づいた午後であった。
その文字の懐かしさに私は文面を早々と追った。読み終えた瞬間、会いたい、駆り立てるような思いが胸に迫った
星凍る夜も灼熱の陽が差す日も見知らぬ地で千切れた夢を繋ぎ合わせていたのだろうか、濁浪に揺れる蕾の芽は暗雲のなかに一点の青空を見つけることができたのだろうか、私は取り留めのない想像を果てしもなく思い巡らしていた。
当日私は、日没が早まった秋色の風景を映した車窓に、私の身勝手に書いた文面と、私の知らない空白の時間の彼女を混色のように思い浮かべハンドルを握っていた。
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| 開幕のベルは私の胸を緊張で凍らせた。光と音楽の協奏するなか、彼女は舞台の袖から衣装と照明の光色に包まれて表れた。一年振りに見る彼女は大人びて、他人のように私の目に飛び込んできた。観客の凝縮した視線は彼女の静と動、光と影、線と輪のごとく動く世界に点となった。会場を揺るがす高揚迫る音楽も感取覆う私の心には届いてこない。時は凍りついたように止まり、私は風に舞う花びらのごとく上手、下手に揺れる彼女を追った。そして、その台詞を一つも耳にしていない。今の日までの彼女の測り知れない涙と汗の量を思うと、私はその重さに耐えかねているだけであった。私は回りの目も気にせずに感泣の溢れる涙を通して彼女の流れるような動きを追い、それは終演の幕が降りるまで続いた。終曲がさざ波のように細く細く消えていき、大鳥が一斉に飛立つように感奮の拍手の波は雷鳴が木霊するようにホールに響いた。私はあるだけの力をこめて手を打った。緞帳は降りた。それは閃光を直視したような瞬間の出来事のようでもあり、遥か遠くの手の届かぬ所にいる人を見たような出来事でもあった。私の知らない空間の彼女は蛹から空を舞う蝶となっていた。 |
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彼女はホールの玄関のざわめきの中に舞台衣装のまま見送りに立っていた。私は彼女にかける言葉を捜し求めたが、探りあてることもできずに「頑張ったね」その一言しか発することができなかった。
彼女は目を赤くしたまま言葉につまり、ただ「うん」と何度も頷いただけで、それ以上の会話はなかった。しかし言葉を超えた形には見えない熱いものが伝わってきた。
彼女の差し出した手には力が入っていた。その手を通して彼女のなかに流れる燃えるような熱い血が伝わってくるようであった。
セピア色の世界が尚も終秋を深めた頃、一通の便りが届いた。
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「風の音も、鳥の声も、樹も花も、全ての風景が新しく見えるのです」
暗夜と暴風の世界を抜け出し陽光のなかに舞出た蝶は今日も日本のどこかの空の下で熟蝶となり大喝采を浴びる日を夢見て、自分に鞭を打ち闘いに挑んでいるのだった。そして時折届いた彼女の俳優物語も今は途切れ、私は玄関の隅に目を落とす度、舞台の上で照明を浴び、華やいでいた彼女と冷秋の小雨の舞う日に届いた、あの花模様の封筒を想い出している。
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