「彫刻の町・旭川」の原点
中原悌二郎
旭川を歩くと、いろいろな所に彫刻があるのに気づく。買い物公園通り、常磐公園、各美術館、そして橋の欄干などなど。市民にとっては日常の風景となってしまっているものの、初めて旭川を訪れた人は、やはり彫刻が目に付くことでしょう。
印刷の歴史の上でも彫刻は関わり合いのあるものです。凸版印刷などは、その良い例と言えるでしょう。
ここでは旭川市の彫刻を皆さんに紹介させていただきます。それにはまず、原点となる人と作品から始めたいと思います。


左の作品は、中原悌二郎による「若きカフカス人」。日本の彫刻史に必ずといって良いほど紹介される作品なので、ご存じの方も多いことでしょう。悌二郎31歳、1919年の作品です。その生命力みなぎる造形美は芥川龍之介をして「誰かこの中原悌二郎のブロンズの「若者」に惚れるものはいないか。この「若者」は未だに生きているぞ」と言わしめたのです。
モデルとなった青年は、「中原は鬼だ」といって、自分の内面を描写されるのに恐怖し、制作途中の作品を壊しかねないほど悌二郎と険悪な雰囲気となっていました。中原はやむなく途中の段階で制作を中止したのです。
結果としてこの作品が荒々しい生命力を表現したのです。

中原悌二郎は明治二十一年に釧路で生まれ、その後旭川で育っています。庁立札幌中学(現札幌南高)に進学後、画家を志して上京。二十歳のときにロダンの教えを受けて帰ってきた萩原守衛のアトリエを訪れています。この時、彫刻に対して理解を深め、二十二歳の時に彫刻へ転身しました。以後、三十三歳で亡くなるまでに制作した彫刻の数々は、日本の彫刻界に多大な影響をおよぼしました。



「老人」1910
中原悌二郎は九歳で釧路を出た後、釧路へは一度も帰ってはいません。悌二郎にとっては生まれ故郷は大きな意味を持っていなかったようです。大正三年に喀血し、保養のために選んだ所は、育った町である旭川でした。
悌二郎が好んで言った場所は神楽岡の自然であったようです。



憩える女 1919
中原悌二郎の死を看取った友人・平櫛田中は、作品は旭川に帰り、顕彰されるべきであるという考えのもとに動き、昭和三十七年、初めて旭川に中原悌二郎の作品が戻りました。こうして昭和四十五年、旭川で中原悌二郎賞が創設されたのです。
以後、この賞のもとに多くの作品が受賞・紹介され、また、旭川の様々な場所で優れた作品に出会うことができるようになったのです。
次回からは旭川の彫刻写真で紹介していきます。



乞食老人像 1918