深淵なる精神への苦悩
加藤顕清・作 「男子座裸像」
7条通り緑道の「思惟像」に対峙して置かれているのが「男子座裸像」です。「思惟像」同様、不自然なまでに全身を屈折させた姿は、固い地盤や重い荷を突き上げるかのようにも見えます。それは伸びようとする命の表現であり、屈折を強調することで強く伸びきった姿を暗示しているようです。氏の作品が単なる形態の模写に留まらず、見ているとそこに人間の内面までも思い浮かばせるのは、作品の中に注ぎ込まれた清新な思いが伝わるからでしょう。作品を通して作者と鑑賞者が対話をする瞬間でもあり、作品を見る楽しみでもあります。こうした作品が身近にり、いつでも鑑賞できることは素晴らしいことであると、つくづく思います。



●ブロンズ
●高さ100センチメートル
●1965年制作
●1972年設置
●緑道(7条7丁目)

2006/12/14


彫刻の奥に見えるのが旭川市役所です。7条緑道は市役所と常磐公園とを結ぶ歩道で、その両側に一方通行の車道があります。写真向かって右側には旭川駅へと続いていますが、かつての賑わいはありません。

必要以上に屈折した姿を見せる「男子座裸像」は、交通量の多い通りに面して配置されています。四方をホテルや病院に囲まれ決して鑑賞には良い条件ではありませんが、それでもなお環境に染まらずに存在を主張するところに氏の作品の磨きあげられた精神性があります。

苦悩や障害が強いほど、それを乗り越えた時の精神の広がりは大きいものです。稲は泥をかぶらなければ芽を出すことができません。人間もまた、苦悩や困難という一見すると泥とも思える中でこそ鍛えられ、高められていく姿をこの像の中に見いだすことができます。乗り越える壁すらあらかじめ取り払われた現代の子どもたちは「過保護」という名の「虐待」を社会から受けており、傷ついた心が本来の姿に戻ろうとして「犯罪」や「反社会的行動」という行動をとっているとも言えましょう。今の大人は「才能ある畜生」程度になってしまいました。心から人間を啓発し、その礎たらんとする、大儀に生きる人物の少なさこそ時代の不幸なのです。

幸いにも私たちは、そうした精神の高みを彫刻から学ぶことができます。握りしめた拳から強い意志を感じます。決してあきらめず、挑戦をやめない精神を支えるものは何なのか。洋の東西を問わず多くの画家や芸術家が様々なテーマで表現しつづける中のひとつに「希望」があります。こうした時代を早くから予見したかのように清冽な氏の作品は、だからこそいっそう胸に突き刺ささるのです。嘆く前に自らが前へと進め、という氏の声が聞こえてくるようです。


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